大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

高松高等裁判所 昭和49年(う)198号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、記録に綴つてある弁護人高村文敏、同宇賀神直、同東垣内清、同林伸豪、同阿河準一及び被告人本人共同作成名義の控訴趣意書並びに右弁護人五名のほか同久保和彦、同金澤隆樹共同作成名義の控訴趣意補充書(その一、二)に各記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は高松高等検察庁検察官検事木村仁一郎作成名義の答弁書(但し、二〇丁表七行目中「控訴棄却」とあるのを「公訴棄却」と訂正)及び右検察官のほか同蓮井昭雄各作成名義の釈明書に各記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

一  控訴趣意中、憲法違反の主張(控訴趣意書第一ないし第三項目、同補充書その一、二)について。

所論は、国家公務員法(以下「国公法」という一一〇条一項一九号、一〇二条一項、人事院規則一四―七(政治的行為)(以下「人事院規則」という)の諸規定は、憲法二一条、三一条に違反するものであるのに、原判決がこれを違憲でないと判断したのは、憲法の解釈を誤つたものであると主張するものであり、その要旨は次のとおりである。

(一)  憲法二一条の保証する表現の自由は、国民の基本的人権のうちでも最も重要なもので、これに内包される政治活動の自由は国民主権及び議会制民主主義の持続発展にとつて、最も重要な価値を有するものであるから、その他の憲法上の権利ないし法益と対比する際には、この政治活動自由の優越的地位が特に重視されなければならず、一般職の国家公務員(以下「公務員」という)といえども、主権者の一員として原則的には政治活動の自由を有することは憲法の保障するところであるから、もし例外的に公務員の公務(行政)を遂行する特殊な地位にかんがみて、その政治活動の自由の何らかの制約が必要であるとしても、これが優越的地位にある権利の制約であるから、厳格な合理的必要最小限度内のものに限られるのは自明の理であるが、原判決は右優越的地位を無視したものである。そしてまた、原判決の指摘する行政の政治的中立性が憲法の要請するところであつても、これに対する国民の信頼の確保や公務員の政治的中立性の必要までが、国公法一〇二条一項、人事院規則の立法目的となつていないものと解すべきである。即ち、国民の信頼をいうのであれば、公務員が特定政党の党員になること、勤務時間外に政治団体の表示に用いられる旗・腕章等を着用表示し、職員組合が特定政党支持の立場を明らかにすること等は本件の場合よりも、より強度に政治的外観を呈するものであるから、これらも規制し得た筈であるのに、これが放任行為とされていることにかんがみて矛盾するからであり、もし国民の信頼に欠けるところがあるとすれば、それは行政(公務)が適正に遂行されていなかつたことに起因するに過ぎないし、原判示の「慎しみある行動」は倫理的要請であつて、公務員の表現の自由、政治活動の自由を奪いさることにまで及ぶものではない。

(二)  もし仮りに、行政の中立的運営の要請から、公務員の政治活動の自由に対する制限禁止が許される場合があるとしても、そのためには、その禁止の目的と禁止される行為との間に、合理的かつ具体的必然性のある関連性が存在するものでなければならないものと解すべきである。即ち、本件のように裁量の余地がない機械的労務を提供するにとどまる非管理職の公務員が、公務と無関係に純粋に一市民として政治活動をする場合には、これによつて行政の政治的中立やこれに関する国民の信頼を損い又は損うおそれがあることの科学的根拠がなく、何ら実証されていないのに、原判決が本件の場合も含めて全面一律に制限禁止できるものと判示しているのは、憲法解釈として許されないものである。

(三)  また、原判決は、公務員の政治活動をどのように制約するかは、まずもつて立法府の裁量に属し、その裁量に甚しい不合理、不均衡な逸脱がない限り、合憲なものと解すべきだとする、いわゆる立法府裁量論の立場を採るものであるが、右の立法府裁量論は、個人の経済的自由に対する規制立法の憲法適否を判定する基準として採用することがあつても、本件のような精神的自由権に関しては採用できず、厳格な司法審査を要するものと解すべきであり、この点の憲法解釈も誤つている。

(四)  さらに、公務員の政治活動制限の具体的内容が、いまだ立法府によつて憲法の要求する合理的で必要最小限度の原則の適用による第一次的審査判断もなされていないのに、その制限内容を全て人事院規則に白紙委任したもので、それは憲法の許容する委任の限度を超えるものであるし、また国公法一一〇条一項一九号では、刑事罰により公務員の政治活動を禁圧しようとしているが、このような基本的人権に関連する事項については、重罰的可罰性の有無について、特に慎重な考慮を必要とすべきであつて、右の刑事罰は重きに失する不合理な刑罰であるといえるから、この点でも憲法に違反する。

というものである。

そこで、右違憲の主張につき、記録及び当審での審理結果を参酌して、審案するのに、本件と同種の政治的行為の制限違反に問われた、いわゆる猿払事件、徳島郵便局事件、総理府統計局事件に対する最高裁判所の昭和四九年一一月六日言渡の判決(以下「最高裁判決」という)に示された憲法判断は、もとより本件の裁判を拘束するものではないが、当裁判所は右の判断に概ね賛同するものであつて、所論指摘の憲法解釈上の問題点を検討しても、右判断と異なる見解を相当とすべき理由は発見されない。そして、かかる見解のもとで、原判決の憲法判断の当否を検討するのに、その原審判断の大筋とその結論に過誤があるとは認められず、以下所論に沿つてその理由を説明する。

(1)  所論(一)について。いわゆる表現の自由は他の基本的人権よりとりわけ重要なものであつて、一般論としてその優越的地位を肯認できるとしても、ただちに表現方法の如何を考慮しないで、すべて同一の優越的地位が認められるものではなく、その表現方法のもたらす弊害の程度などによつて地位の優劣も生じ得るのであつて、表現の自由に根拠を有する利益が、憲法の要請する行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼確保の利益に当然優越すると解することはできない。そして、原判決及び前記最高裁判決が判示するとおり、公務員の政治的行為の制限の根拠となる行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼確保は、憲法の要請する国民全体の重要な利益であつて、この国民の共同利益を確保する手段として公務員の政治的中立性が肝要とされるものと解せられるが、この公務員の政治的中立性の必要から公務員の政治活動の自由が全面的に制限禁止されるものでないことも明らかである。即ち、本件に適用される人事院規則の定める規制対象は、公務員の政治活動の一部である政治的行為であつて、しかもそのうち、さらに規制目的を侵害する危険性の強い一定の態様(手段方法)の行動類型に属する政治的行為―それは特段の優越的地位を認め難い表現の自由の一形態ともいえよう―についての制限禁止であることが明らかである。詳言すれば、その禁止される政治的行為(行動)を、これに内包される政治的意見表明そのものの制約を狙いとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止を狙いとして禁止するものであり、そのことは同時にその行動禁止により意見表明の自由が制約されることになるが、それは単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的制約に過ぎず、換言すると、このような弊害を伴う禁止された行動によらなくても、他に弊害を伴わない方法でその意見表明をすることも可能であるといえようから、この政治的行為の制限禁止が、その行為によつて生ずる弊害に目をそむけて、表現の自由の優越的地位を無視した重大過重の制約というのは相当でない。そして、原判示のとおり行政の中立的運営は憲法の要請するものであることは多言を要しないところであるし、これに対する国民の信頼維持が要請される事由は原判決が詳述するとおりであつて、それは行政の中立的運営に対する国民の側からの信頼の問題であり、その信頼維持がなければ行政の能率的継続的、安定的運営が円滑に遂行できないことになるので、この国民の信頼の確保も憲法の要請するところと解するのが相当であるから、公務員の公務(行政)遂行の実体において政治的中立でなければならないのはもとより、公務員の公務外の行動でも、それが国民の側から見て、公務の中立的運営に疑念、不信を生じるおそれのある行動は、これを防止することが国民の信頼の確保のため必要であるといわなければならない。所論は、公務員が特定政党の党員になること、勤務時間外に政治団体の表示に用いられる旗・腕章等を着用表示することなどは、政治的外観を呈しているのに、これが放任行為とされていることを根拠として論難するのであるが、その例示が仮りに主張のごとく政治的外観を呈するといえるとしても、それは国公法、人事院規則で制限禁止されている公務員の政治的行為、殊に被告人の本件違反行為に比して、その国民の信頼を阻害する危険性の程度は薄弱といえるし、公務員といえども、基本的には政治活動の自由が保障されていることにかんがみると、所論指摘の矛盾、不合理は認められない。また、原判決が、「公務員は、国民の側からの右の信頼を阻害するものと評価されるようなことがないよう慎しみをもつて行動すべきである」と判示したのは、国公法、人事院規則の公務員の政治的行為を規制する立法目的の一端を判示したもので、正当の判示であり、これを論難する所論も理由がない。

(2)  所論(二)について、公務員の政治的行為の制限禁止をすることが許されるためには、その禁止の目的と禁止される行為との間に合理的関連性のあることが必要であるが、その関連性は事柄の性質上、所論のように禁止目的が禁止される行為によつて、直接、具体的に侵害されるおそれがあることの科学的根拠の実証まで必要とするものとは認められず、経験則に照らして、抽象的合理的関連性(危険性)があれば足りるものと解するのが相当である。即ち、原判決及び前記最高裁判決の詳細説示するとおり、国公法、人事院規則の規制対象とする公務員の政治的行為、殊に被告人の本件違反行為が自由に放任されるときは、行政組織の有機的統一体としての機能面やいわゆる累積論の見地より考察して、おのずから行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼維持が損われる高度の危険性(弊害発生)があるものと判断されるから、これに合理的関連性のあることを認めざるを得ず、この点の論旨も理由がない。

(3)  所論(三)について。原判決は、公務員の政治活動の規制は、合理的で適正な均衡をもつて必要最小限度でなされるべきであるとしながら、具体的な規制の範囲、程度は、まずもつて立法府の裁量に属し、その規制が著しく不合理不均衡でない限り合憲なものと認めるとして、合理的均衡制限論ないし立法府裁量論の立場から、国公法、人事院規則の公務員の政治的行為の規制措置を合憲と判断している。所論は、本件のような精神的自由権の規制立法に対する合憲性判断の判定基準として、右の立法府裁量論は採用すべきでない旨主張し、当裁判所も右主張のように本件の精神的自由権に関する審査基準では、単純な立法府裁量論に従うことは相当でないと解する―それは、精神的自由権が財産的自由権より優越的地位にあるからというのではなく、その権利の性質面に基づく裁判所の司法審査の相当性、適合性に着目する見解である―けれども、原判決は前記のように単純な立法府裁量論ではなく、合理的均衡論の基準をも採用していて、その合憲と判定した理由中で、詳細、具体的に合理的均衡性が肯認できることの説示もなされており、その趣旨とするところは、前記最高裁判決が判示する政治的行為の禁止目的の正当性、禁止目的と禁止行為との合理的関連性、禁止による利益、不利益の均衡性を内容とする必要最小限度の審査基準と概ね同内容の厳格な審査判定をして、その合憲性を肯定したものであることが認められ、その結論においても同一に帰したものであり、原判決の合憲判断に過誤はなく、この点の論旨も理由がない。

(4)  所論(四)について。所論は、国公法一〇二条一項の政治的行為の定めを人事院規則に委任している点及び国公法一一〇条一項一九号により政治的行為の禁止の違反者に刑罰をもつて臨むことが許容されている点において、憲法違反を主張するものであるが、この点の違憲論は、前記最高裁判決の少数反対意見として表明されており、論旨はこれと同旨のものであつて、これに同調すべき十分の理由を思考し得ず、所論は採用することができない。

(5)  以上の次第によつて、所論の違憲の主張はすべて採用できず、原判決の合憲を認めた法律判断はすべて正当であつて、何ら非違はない。

二  控訴趣意中、本件犯罪事実に関する事実誤認等の主張(控訴趣意書第四項目)について。

所論の要旨は、被告人は原判示第一の石田候補の個人選挙演説会では、同候補を、同第二の石田、須藤両候補の合同個人選挙演説会では、同両候補を支持し推せんするものである旨の自己の候補者に対する態度を表明したに過ぎないし、第一の右演説会では須藤候補につき演説したこともなく、原判示のような投票を勧誘するような言動をした事実は全くなかつたから、被告人の行為は人事院規則一四―七、六項八号の構成要件に該当しない旨主張する。

しかし、原判決挙示の証拠を総合すると、原判決の事実認定はすべて肯認することができ、当審における事実調の結果によつても、右判断を左右することはできない。即ち、原判決が説示するとおり投票勧誘運動とは、単なる特定政党ないし特定候補者支持の表明とか、単なる投票依頼といつた領域を著しく超えるところの、組織的、計画的又は継続的な方法によつて特定候補者への投票を訴える行為をいうと共に、その投票を訴える行為とは、必ずしも投票をしてほしいといつたあからさまな投票依頼ないし勧誘の用語によつてなされることのみをいうのではなく、その言動(演説)全体の趣旨からみて、それが投票するように勧誘する意味であると一般に理解される趣旨のものであれば足りるものと解すべきであり、前掲証拠によれば、原判示立候補者の選挙運動のため計画された原判示各個人演説会において、被告人はその計画に組み入れられた応援弁士として演説し、その演説の全趣旨としてその候補者に対する投票をするように勧誘する意味の演説をしたものであることが認められるから、原判決の事実認定、関係法令の解釈適用について何らの非違も認められず、所論は採用することができない。

三  控訴趣意中、可罰的違法性を欠くとの主張及び適用違憲の主張(控訴趣意書第五、第七項目)について。

所論の要旨は、被告人は郵政事務官であるが、行政的な裁量の余地もない非管理職として現業の機械的職務である保険貸付事務を担当していた者であるし、公務とは全く無関係に、かつ、自己が公務員であることを聴衆に知らせず、書道家「南竜」という一市民として演説したに過ぎず、これにより行政の政治的中立性が損われた実害はもとより、その危険性もなかつたから、可罰的違法性を欠く旨主張し、また政治活動を行う国民の権利の重要性を考えると、被告人の本件行為に国公法一一〇条一項の定める刑罰を科することは、その制裁として著しく不合理、不相当なものであるから、その罰則を適用する限度で、同法条は憲法二一条、三一条に違反する旨主張する。

しかし、被告人の本件行為は政治的行為の中でも、典型的な行為であつて、党派的偏向が最も顕著なものというの外なく、たまたまその際の聴衆において被告人が公務員であることを知らなかつたとしても、公務員の政治的中立性が損われるおそれがなかつたとはいえず、所論指摘の諸事情を考慮しても、被告人の本件行為が可罰的違法性を欠くと認めることはできないし、また右適用違憲の主張も、その制裁として刑罰をもつて臨むことが著しく不合理、不相当であるということもできないので、右所論はいずれも採用することができない。

四  控訴趣意中、公訴棄却の申立(控訴趣意書第六項目)について。

所論の要旨は、本件公訴の提起は、日本共産党の正当な選挙運動を妨害するため、共産党の個人演説会のみに眼を向けて、私服警官を潜入させ、敢えて違反防止の警告もせず、聴衆に対してもなぜ演説会に行つたかを詰問するなど選挙妨害もしたものであるのに、検察官はその捜査の違法を知りながら、他党の場合と差別し、敢えて起訴したもので、それは公訴権を濫用するものである旨主張する。

しかし、原審及び当審で取調べた関係証拠を総合すると、原判決がその公訴権濫用の主張に対する判断の項で説示している事実認定と法律判断は、所論指摘の問題点についてすべて正当な判断を示したものと認められ、いまだ違法捜査のなされたことを肯認するに足る証拠がなく、本件公訴の提起が不公平で公訴権を濫用したものとは認められないから、本件公訴棄却の申立は理由がない。

五  以上の次第で、所論はすべて採用できず、原判決の事実及び法律判断は正当で、何ら非違は認められない。

よつて、刑訴法三九六条、一八一条一項本文により主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例